【大学病院】普通の女の子
治療室に長年通っている女の子がいた。まだ、高校生。
先天性疾患のために、生まれつき歯の数が少なく、上顎の発達が不十分で上の歯が表から全く見えなかった。講師、助教授の先生と担当が変わっていったが、治療方針がおりあわず、とうとう教授担当の患者さんとなった。
ある朝、ぶ厚いカルテケースとともに、通常では考えられない大きさ(長さ)の仮歯の模型が教授の治療ユニットに置いてあった。「今日は仮歯をこれに変えるのか・・・。」受付の先輩衛生士が言った。「タッチャンにNちゃんのお相手が務まるかしら?T先生もU先生も彼女とケンカしてダメだったのよ。彼女のお姉さんはすらっとした美人さんでね。Nちゃんは『なんで私はお姉ちゃんと違うの?私だってきれいな服を着てオシャレをして普通の女の子のように笑いたい!何で私だけ笑ってもかわいい歯が見えないの!?』と言ってね・・・。先生に彼女の心が癒せるかしら・・・。頑張ってね。」
やがて診療が始まった。
診療室に入ってきた彼女の目は、「すべての人を拒絶します。」と言っているようだった。「Nちゃん。今日はあなたの希望通りに仮歯を作ってきました。これを入れて感想を聞かせてください。」彼女は沈黙したまま、じっと仮歯を見すえていたが、やがて治療イスに座って目を閉じた。
初めて口腔内を診察した。そこには通常の大きさよりは長い、ただしとてもきれいな仮歯が並んでいた。
私は思わず「Nちゃん、この歯じゃダメなの?とてもきれいだと思うけど?」と言った。
「先生?普通の女の子は笑ったらウサギチャンみたいにかわいい前歯が見えるものでしょう?私の歯は見えないの?」
ウサギチャンか・・・。
確かに彼女の今の仮歯では、どう笑っても全く見えない。いくらきれいに作ってあっても彼女の外見には全く貢献するしろものではなかった。だから笑わない?
笑わない事に決めてしまったの?
よし!
私の心の中の波動エンジンが静かに動き出した。
「新しい仮歯を入れてみますね。」
模型上では、全くの異形だった仮歯が、彼女の口腔内に入り光を放った。初めて上唇から、仮歯が見えるようになった。これなら、笑顔も作れるんじゃない?Nちゃん。
彼女はアシストのドクターに手鏡を求め、食い入るように鏡の中を見つめた。
その瞳がかすかに変化した。
「今までよりはいいみたい。これ、使ってみます。」
新しい仮歯を仮着して彼女を帰した後、これで前進したかと思ったが、そう簡単ではない事を思い知るのにさして時間はかからなかった。
次の回には「とてもきれいなんだけど、前歯の真ん中が少しズレてるみたい。もっとこっちが真ん中だったらカワイク見えると思うの。」直そうとして即充レジンを用意すると
「ダメ。いじらないで!足したりしたらきれいじゃなくなっちゃう。」
そこで仮歯の入った模型と、仮歯を外した模型を作るために歯型を印象した。そして、仮歯の入った模型に正中(まん中)修正用のマークを入れた。そんな日々が続くうちに、少しは距離が近くなったかと思っていたが、その見通しは甘いと気づかされた。
学内でNちゃんを見かけて声をかけても、彼女は見向きもしない。
・・・外で声をかけないで。歯医者に行ってるのがバレルじゃない。私は歯なんて治していない。・・・
診療室だけで彼女と真正面から向き合うしかない。次の仮歯に専念しよう。
次の仮歯を入れると、「わあ。直っている。使ってみます。」
けれども、その次の診療日になると
「高校生の女の子は犬歯(糸切り歯)がもっときれいにとんがってるの。これじゃあオバアチャンみたい。」
前回と同じように2種類の型をとり、技工士の先生に要望を伝えた。
そしてその次には
「あんまりきれいにならんでいて、なんだか入れ歯みたい。もっと本物らしくしてください。」
次の仮歯は、こわれる可能性が高くなるのを承知の上で表の切れ込みを深くした。そんな仮歯作りが何回も繰り返されたある日のこと、「仮歯では本物の質感が出せない」という教授の判断から、本印象へと進む事になった。
ある日の教授チームの遅い昼食(いつも教授と私は診療の終わる6時頃まで昼食をとっていない)の席で、教授は私に言った。
「あの人はかわいそうなんだ。口元さえきれいになれば、人生が変わると信じている。助けてやってほしい。」
いつもながら信頼とともに重圧が押し寄せる。
佐藤「個歯トレー印象のあとは、ワックストライですか?」
教授「TEK(仮歯)であそこまできているんだ。ビスケット・ベイク(素焼き)からで良いだろう。」
その後、素焼き状態からの度重なる修正にとうとう担当技工士(教官)が悲鳴をあげた。
「これ以上の修正は、ポーセレン(セラミック)の強度を保障できませんよ。」
佐藤「もうグレーズ(ツヤ出し仕上げ)でいくしかありません。リアル(本物)感がないとNちゃんのOKは出ないと思いますよ。」
技工士「グレーズしてしまうと、その後の修正は1.2回が限度ですよ。」
佐藤「どうしてもダメだとなったら、全部(セラミック)を外してしまうことも考えています。」
技工士「ポーセレンもありますが、メタルフレームの方も限界です!」
勝負の完成品が出来上がってきた。だが、しかし、私の心に不安がよぎった。
私は完成品を持って教授室のドアをノックした。
佐藤「大山先生、Nちゃんのケース出来ました。」
教授「おお、そうか、ご苦労さん。」
佐藤「でもこんなに長くて重い歯でいいんでしょうか?」
教授「そうだな。でも、これが彼女の望む歯なんだろう?」
佐藤「口の中に入れれば確かにきれいに見えます。でも(バランスが悪くて)すぐ取れてしまいますよ?(それでもこれが医療といえるのでしょうか?)」
教授「そのときは佐藤、また2人で一緒に作ればいいじゃないか。そうだろう?」
佐藤「・・・・・・」
・・ボス、どこまでも、おともします。・・・
素晴らしいボスがいつも後ろで見てくれていた。その人に少しでも近づきたい。その思いで今も私はさとう歯科医院を運営している。