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2011年12月24日

私が研修医の時代は、まだ確たるカリキュラムもなく、ヤル気さえあれば何でも叶う恵まれた時代だった。当然のごとく興味のある矯正科に申し込み、指導教官名に驚いた。
超体育会系のM先生だったのである。恐る恐る指定の日時に外来に出向くと
「質問とやりたいことを紙に書いて30分後にもう一度来い。」
といわれた。

30分後
「リンガルアーチは実習と同じ。これもそう、これも。クラスIの成人D.B.Sがやりたい? わかった。俺が初診受付のときに探しとく。ただ専門医じゃないからって手を抜くなよ! 矯正科のルール通り教授診断も受けろ。それが終わるまでは帰れると思うな! 俺がいないとき分からないことがあったら同期の(専門医の)Fに聞け。」

新患配当を受け、資料作り、模型分析、セファロ分析、診療方針・・・週末は全て矯正オンリーになった。
主治医として担当させていただいたOさんは、瞳も大きな美人で唯一歯並びが悪く、夏前の写真でさえ口唇が閉じずひび割れていた。いつものごとく何とかしたいと闘志が涌く。

教授診断を通り、親知らずも含めた抜歯も、虫歯の治療も全てやらせていただいた。(専門医だったら大学では矯正しかさせてもらえない。)

矯正科の外来に出る日はOさん以外の治療はM先生の指示のもとにやらせていただいていた。毎日行くわけではない上、M先生の怒声もあってなかなか道具のありかさえピンとこない。「バカチン! 遅い。」の日々が続き、矯正科通いはかなり神経も疲れていた。

そんなある日、M先生は診療・指導その他で多忙を極めていた。当然お付きの歯科医は私も含めてビクビクしていた。
「佐藤先生、この患者さんは上下ワイヤー外して16(イチロク)を18(イチハチ)に変えて
パッシブにタイしろよ。シンチバックを忘れずに!」
M先生ならいざ知らず、当時の私では30分ではとてもクリアできない内容だった。
45分ほど過ぎて大爆発が起こった。

「佐藤君、君は勉強しに来ているのかジャマしに来ているのか! どっちだ!! もういい。俺がやる。」

M先生の声が外来中に響き渡った。周りがいっせいにこちらを見た。もうだめだと思った。
M先生が患者さんを連れて受付に向かうと、隣の先生が
「あの人はよくあることだから気にするなよ。」
と声をかけてくれたが、心ここにあらずであった。
「もう無理だ。ただ、このまま消えるのでは失礼になる。」

そう思い、3時半(外来は3時終了)頃、M先生の研究室のドアをノックした。
「おう、入れ。」
「先生、今日は大変ご迷惑を」
と言いかけたところで
「佐藤君、今日は悪かったな。まだ教えていないことをやらせてしまったようだ。」
M先生は机の引出しから矯正ワイヤーをジャラジャラと取り出し、
「君にクリスマスプレゼントをやろう。まず上下アイディアルアーチを20本ずつ、曲げて来い。
このフォームに合わせろよ。少しでも浮いていたらダメだ。」

M先生にとっては1本5分でも、私には1本20~30分かかった。クリスマスどころではなく、冬休み中、コタツのテーブルの上で、ステンレスワイヤーをフォーム通りに曲げ続けた。
曲線はOKでも、指で押さえて少しでも浮くところがあったらNGとなる。それこそ指の皮がむけて「血染めのワイヤー」となった。年明けにM先生の研究室にワイヤーを持参した。先生は形を見て、浮かないかを指で押さえてチェックしていたが、
無表情に
「次はファーストオーダー入れてこい。ケーナインオフセットのカーブにカドをつけるなよ。」
と言った。
翌週、それを持参すると
「忘れないように練習を続けろよ。」
と言って後ろを向いてしまった。

後から思うとその頃からM先生の言葉に変化が出てきたようだ。また、先生は厳しいながらも私が失敗して口腔内撮影のフィルムをダメにしたときも、
「オレが他の先生たちに謝っといたからオマエはもう行かなくていい。」
と言ってくれるやさしさがあることにも、遅まきながら気づくようになった。また、門下生であっても外に出て開業した先生に対しては
「先生、こういうとき開業医ではどういう治療を選択するんですか?」
と尋ねる謙虚さも持ち合わせていた。

私の目はまったくのフシ穴であった。

その後Oさんの治療は進み、でこぼこだった前歯がきれいに中に納まっていった。
そんなある日、M先生と私は同じ一点を見ていた。Oさんの口唇にカラーの入ったリップクリームが塗られていた。初めてOさんが化粧をして外来にやってきたのである。
診療終了後
「おい! 佐藤。やったな!! 今夜は祝杯だ。」
映画「愛と青春の旅立ち」の気分だった。その夜だったか定かではないが、同期の矯正専門医のF先生がこう言った。

「佐藤君が上下20本ずつのワイヤーを持っていったとき、M先生はメチャメチャ感動しとったんだぞ! おかげで俺たちは『専門医ではない佐藤先生が上下20本ずつ曲げてきた。お前ら専門医は今日から100本だ!』ってことになっちまった。」

その後もM先生には御指導いただき、私の開業の際も
「一般医の先生の診療所を見学させてください。」
と言ってお祝いに来ていただいた。

ある日、2人でエレベーターを待っていると、M先生が
「佐藤先生、俺の指導に問題があるのかな? 先生の後、研修に来た先生が5人続けて辞めているんだ。」
「そんなこと絶対にありません。そいつらが生ぬるいだけです。」

アレレ?

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さとう歯科医院 院長 佐藤達也

さとう歯科医院
http://www.satou-client.jp/
院長 佐藤達也

【ブログの主旨】

「診療雑感」は、私が過去にどのようなことを感じ、どんな診療を行っていたかをまとめたものです。症例写真だけでは技術をお見せすることはできませんが、文章なら私の人間性を語ることができます。 なじみの患者さんが言っていた、「何かあったら、(佐藤)院長が出てきてくれるんだから、俺は今の先生を信頼してお任せしていますよ。」とは、ありがたいひと言である。


【経歴】

1988年 東京医科歯科大学卒業

1988年~1990年 東京医科歯科大学研修医修了(2期生)

1990年~1998年頃 東京医科歯科大学・障害者歯科学講座・顎口腔機能治療部において、大山喬史教授(当時の病院長、現在学長)の指導のもと、教授診療助手のチームリーダーとして、難易度の高い義歯や著名人・芸能人の審美歯科治療を担当。

1991年~1998年頃 障害者歯科学講座・障害者歯科治療部において、有病者の歯科治療。

1992年6月 大田区東雪谷にて開業。

2004年9月 現在住所(隣)に移転。