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2011年12月10日

会議、指導、予算獲得、講演、講義、診療、などなど、多忙をきわめる教授にとって有能な秘書は欠かせない。
一方、教授の診療をささえる私にとっても、彼女はなくてはならない存在だった。
彼女は教授の行動を把握しており、あと何分ぐらいで教授室に戻ってくるか、随時私に伝えてくれた。そればかりでなく、むずかしい話が可能かどうかの雰囲気までも。また、教授室でよくコーヒーをいれてくれた。

厚顔無恥な私は、すすめられるままにソファーのなんと教授の席でコーヒーを飲んでいた。教授室のすりガラス付きの扉越しに私を見て、教授と間違えてドアをノックした人のなんと多いことか!名家の長女だった彼女は、家でのしつけも厳しく、幼少の頃から接客することも多く、それゆえ「お客さまによろこんでいただくことも、早々にお帰りいただくこともできます。」と言っていた。

おかげで教授が戻るやいなや本日の治療予定を「勧進帳」のごとく読み上げ、すばやく実行に移すことができた。
本当に感謝しています。彼女にまつわる逸話は多いが、これはまたの機会に。

あるとき彼女から友人同士で飲み会をやらないかという誘いを受けた。後から思うと、彼女の友人と私を引き合わせたいということだったらしい。そうとも知らず、彼女の連発する「佐藤先生はイイ人なの。本当にイイ人なのよ。」に違和感を覚え、翌日抗議した。「イイ人とは何事ですか?男はどうでもいい人とは言われたくない。」
その時初めて彼女の怒りの表情を見た。
「私は先生が素晴らしい、立派な方だと思い、そう申し上げたつもりです。」

翌日、謝りに行ったところ機先を制された。
「先生、私の考えが足りませんでした。佐藤先生のどんな所がどのように素晴らしいかを話さなければ、話が伝わりませんよね。今後は気をつけます。」

かないませんね。スクラム同様押すことしか知らない私は引かれると滅法弱いのです。

2011年12月 9日

これは私の直接の仕事の話ではない。
教授診療チームの後輩歯科医師から聞いた話である。

彼は優秀であるばかりでなく、その心配りたるや達人の域だった。その後輩歯科医師なくして私は大学で無事診療を終えられなかったと思う。動力担当部署に教授診療であることを電話すれば夜8:30頃まで動力が使えること、それ以降は訪問診療セットを準備すること、技工部との連携、歯科衛生士への根回し、後片付け、すべて彼が教えてくれ、先頭に立って実行してくれた。なおかつ上層部の私への評価をさりげなく伝えてくれ、「まだまだ攻めの診療ができる」と教え、励ましてくれた。本当にありがとうございました。

話を診療に戻す。患者さんは車イスに乗って奥さまとともに外来にいらした。もはや治る見込みのないところまできており、口から食事をとれる状態ではなかった。
それでも総義歯を作ってほしいという。

「主人は来週予約しても、もう来院できないかもしれません。それでも主人の最後の願いを聞いてやってほしいのです。」
後輩歯科医は状況を察し、診療後に自分で義歯を作っていた。超特急で作った義歯を入れた患者さんは
「どこも痛いところはありません。鏡を見せてください。」
と言った。
それがお会いした最後だったという。

「佐藤先生、あとでわかったんですけど、あの人は有名な軍人さんだったんですよ。奥さまから手紙が届きました。」

先日はご丁寧な診療、ありがとうございます。
主人は帰宅すると私に昔の軍服を出すように命じました。
それを着て鏡の前で、なんと立ち上がり白い帽子もかぶり、満足の笑みを浮かべておりました。
本当にお世話になりました。

2011年12月 8日

そのご婦人は、ご主人に連れられて来院した。
以前、私がご主人の義歯を作っており、常々「女房の体調が良くなったら連れてきますから。」
と言っておられた。
ご病気の為か、あまり表情がなく、また長時間口を開けたり、座っているのは困難な状態であった。技術的なことは経験から何とでもできる。大学病院障害者歯科では脳梗塞や心筋梗塞のあった方の心拍、血圧、脈の乱れ、血中酸素飽和度等をモニターしながら(医科歯科大学でさえ麻酔医がつく余力がないので)横目と耳を使って診療していたのだ。

問題は心だった。なんとか、少しでも癒して差し上げられないものか?
わずかな会話の中にヒントがあった。
「先生、サユリチャンてかわいらしいわよねえ?」
この方にとってのサユリチャン?
「吉永さん?ですか?」
「そうよ。口元がウサギチャンみたいでかわいらしいと思わない?」
これだ!吉永小百合さんの笑っている写真をさがした。少なくとも最近は歯の見える写真はない。

後日、ロウ義歯試適(洋服の仮縫いのようなもの)の際、私は技工士の並べた歯を少し手直しした。若い頃の吉永小百合のような歯並びを作ってみたのだ。
「いかがでしょうか?」
私は手鏡を差し出した。
彼女の目に光がともった。
「あら、まあ!」
「あなた見て、どうかしら。」
「おお、おお、似合うよ。とても綺麗だよ。」

わずかばかりのお手伝いができたかもしれない。

2011年12月 7日

大学病院時代、教授の患者さんで高名な女性占い師がいた。
全盛期時代は三越本店をはじめ多くのデパートで占い教室を持ち、テレビ番組もあったという。
ある日担当させていただいたところ、非常に気にいっていただけた。
「先生うまいわ!他の若い先生と違う。名前観てあげる。」
「あんた、すごい優秀、頭も切れるわね。」
石川台で開業した後も来院していただき、
「わざわざ遠くからお越しいただき、ありがとうございます。」
と言ったところ
「冗談じゃない!私は忙しいの。お世辞で来る気なんかありゃしない。あんたの腕を見込んで来たのよ。大学に残っていたって別の若い先生たちが担当医になるんでしょう?」
そう言いつつも返す刀でという言葉があるように、ウチのスタッフを勧誘する。
「主婦だってお金が必要でしょう?占いを習ってお小遣い稼ぎしない?」
誰も乗り気にならないので、私が恐縮してしまった。元来、人がやらないことで世の中に必要だと思ったことをやりたいタチである(タダの変人か?)。男性占い師で表に立つ人もあまり見られないようにも思った。
「先生、私が習ってはダメですか?」
「あら先生?いいわよ。何曜日が都合がいいの?」

以降デパートのカルチャーコース(初級)から始まり、医院が1Fに移転するまで14年間程ご自宅で指導を受けた。その間、主催する教室の理事や「日本占術協会」の会員にも推薦していただいた。
たまに「歯科医師免許」ではなく「占い師免許」を掲げたい気分になるが、初めての方にとってはあまりにも怪しすぎるので自重している。
お付き合いの長い方や、お困りの方にさりげなくお伝えするようにしている。

ある日のこと、古くからの患者さんが来院された。
「原宿の美容師さんから『あなたの家の近くに良く当たる占い師さんがいる』って聞いたんだけど、先生のことなんですか?」
「そんな所まで?ああ、その人なら前に観たことがあります。ご両親が相談にいらしてね。」
彼女の場合、最初は「別に何も」とか「今年の運勢」とか言っていたが、雰囲気から先があるとみて休憩時間も続けた。
ついに出てきた核心は「永すぎた春」を「ハッピーエンド」にしたいというものだった。

こういう決断の場合は「易」が相応しい。厳しい解答でも受け止めてくれるか、他の方法で流れをお伝えする方が良いのか尋ねたところ、迷った挙句であったが決断したいとのこと。
「易」は普通はぜい竹という竹の棒でやるが、場所をとるし、かさばるので中級者以上が使える(らしい)サイコロを使った。

出た掛は「地天泰五爻」

「とてもはっきり出ました。○○○してください。すぐにやらないとダメですよ。」
「はい、わかりました。やってみます。」

彼女の行動力は素晴らしかった。
翌日、彼女の母親からお礼の言葉と立派な果物をいただいたのであった。

2011年12月 6日

研修医1年目、4か月ずつ口腔外科、第3保存(根管治療)と研修し、本来所属の顎口腔機能治療部の4か月が始まった。

研修開始早々、大山教授に
「このコーヌスのケースは君に任せる。わからないことがあったら聞きに来なさい。」といわれた。
コーヌス・クローネといえば部分床義歯治療の最高峰。
多数歯のインプラント同様、「口の中に高級車が入っている」と言われる程高額な治療方法だ。
新卒社員にビッグ・プロジェクトを任せるようなものだ。

これはマズイ。
うかつに聞きに行ったら大変なことになる。いくらニブイ私でも緊張が走った。
当時コーヌスについての専門書は日本語では3冊しかなかった。
まず、何をおいてもその3冊を読み大きく分けて2つの手順があることを理解した。そこで教授室に行き、質問した。
「先生、内冠をpick upするんですか?それともsetしてからimpするんですか?」この質問は正解だった。
「pick upでやりなさい。」
その後もこのスタイルで大山教授につかえ、数々の無茶をやりながらも一度も雷を落とされずにすんだのである。

2011年12月 5日

大学病院時代、すべての歯をメタルボンド冠(白いセラミック歯)に変えたいというモデルさんがいた。彼女は、いわゆる着色歯で、すべての歯が灰褐色に変色していた。なんとか役に立ちたいと思い、いろいろ手をつくしたが、なかなか先に進まない。何かがあると来院しなくなるのだった。

彼女の自宅電話、ポケベル(なんと当時は携帯電話がなかった!)彼女のママ、彼氏、・・・と次々に押さえていったが、それでもつかまらないこともある。

前処置が終わり、いよいよ大規模に削って仮歯に変えようという段になった。ここからは1回あたりのチェアータイム(治療時間)が大幅に長くなる。
仕事やオーディションの関係で3本ずつ仮歯というわけにはいかない。事務所には、歯の治療はしていないということになっているからだ。

教授の指示でまずは1回に上前方10本、次に下前方10本を削って仮歯にするということになった。
治療時間は1回当たり5時間といったところだろう。ここまで口腔内すべてにかかわってきた以上、何とか無事に仕上げたい。だが、彼女の精神力が持続するだろうか?私の大学での残り時間も1年を切っていた。教授は「口元の美」という講義のために審美治療の症例数をできるだけ集めたい。彼女は、歯さえきれいになれば笑った写真がとれて自分は売れると信じている。

実際、南野陽子、観月ありさの間に「富士フィルム」のコマーシャルに入れるかというところまできていた。
彼女の母親(銀座か赤坂のママだったと聞いている)は私のことを買ってくれている(?)

全員の望みをかなえるため、何がベストだろうか?
私が彼女を「愛してしまった」というストーリーが1番被害が少ないのではないだろうか?
これ以上無理を通すとまわりに多大な迷惑がかかる。
当時の私はそれぐらいしか思いつかなかった。

実際数年にわたり治療を続けていると胸中かなり複雑である。50cm以内の距離に毎週のように入っている。私はそのストーリーで行くことに決めた。教授診療の名の元に夜間診療をするのも、誰のせいでもなく、私が彼女にホレてしまったため。一度などは夜11時頃になり、手伝ってもらっていた研修医の女性の所属先から抗議を受けた。
相手は今では有名人の澤田則宏先生(私の同級生)で
「タツヤ!ウチの女の子に何をした!」
と言われてしまった。

また、彼女に相談事があると夜の街に連れ出したのも彼女が好きだから。彼女がヘルニアで入院すると見舞いに病院へ行ってなぐさめた。

そうすることによって、まわりがそういう目で見てくれるようになり、何とか大問題にならずに治療をしていたが、何度目かの音信不通が起こった年末のことだった。担当技工士のOさん(教授の患者さんの担当は、すべて技工士学校の教官で、本来私などが口を聞けるレベルではない)があいさつに来られた。

「先生、私事で恐縮ですが、来年3月を持って退官することになりました。長い間大変お世話になりました。・・・ただ、唯一の心残りはあの・・・」
グッときて熱くなった。なんとしても彼女を連れ戻して3月までに作り上げねばならない。
昔風に言えば、「わが命に変えても」、の心境であった。

年明けの外来に彼女と母親の姿があった。その日はいつもより混雑しており、事務局のスタッフが数名いたことから、政府高官も来院することがうかがわれた。(タイミングが悪いな。)

順番になり彼女の元に向かった。
まず、母親が立ち上がり
「先生、大変申し訳ありません。Sチャン・・・」
と彼女をうながしながらお菓子を差し出した。
彼女は深くかぶった野球帽ごしにこちらを見た。
その眼は(どうせまたお説教でしょ。早くすませてよ。)と言っていた。
ゆっくりと立ち上がった彼女の頬に私の右手が向かった。左頬に1回、返す手で右の頬に。
瞳の水道管が破裂して、彼女は待合室を飛び出した。

「Sチャン!先生申し訳ありません。」
母親が彼女を追った。最悪の数分間、私は立ちつくしていた。10才年下の女の子に私は全くかなわなかった。

それでも私には仕上げる責任があった。
母親が連れ戻した彼女はまだ大雨が降っていた。もしここで母親に暴力歯医者と呼ばれたら荷物をまとめて出る覚悟の上であったが、母親はすべてを理解してくれていた。
「Sチャン、泣いたままでいいから、スケジュールを持ってついて来て。」
1Fの外来から3Fの技工部まで私は彼女の手をとって進んだ。
人ごみがよけて道ができていった。

「Oさんいらっしゃいますか?」
驚くOさんに
「どういう工程表なら間に合いますか?」
「Sチャン、はっきり答えて。」
「うん、うん、・・・」
「はい、大丈夫です。仕事はキャンセルします・・・」

その後、かつてない程のペースで治療は進んだ。アシストしてくれる若手のドクター、衛生士、そしてOさんの協力の元に。
「Oさん、印象出ました。」
「すぐに取りにうかがいます。」
Oさんが石こう模型を起こし、すぐにやって来る。
「先生。8歯はいいのですが、2歯は少し甘いようなので、副歯型印象をお願いします。それと、大変申し訳ないのですが、全顎でもう1組個歯トレーを作ってきました。」
「Oさん、まだ3時間はかかると思うけど、大丈夫ですか?」
「何時まででもお待ち申し上げております!」

3月中旬、最後のセラミッククラウンを口腔内に装着し、医局資料としての口腔内外の写真撮影を終了した。
当然のようにOさんも立ち会っている。私は最後の仕事に気がついた。

ごきげんのSちゃんに
「Sちゃん、教授室の前で記念撮影しない?」
教授室のプレートをいれ、Sちゃんと遠慮するOさんの2ショットの写真を何枚かフィルムにおさめた。

当時まだ珍しい全顎治療の彼女のスライドも加わった、教授の「口元の美」の講演は好評で、続編も作られる程だった。

時は流れ、数年後の合コンでのことだった。相手は衛生士さんのグループで、ふとしたことから懐かしいOさんの名前が出た。
「Oさん、うちの医療法人で技工やってますよ。」
「いつもきれいにして帰る技工机に1枚の写真が飾ってあるんです。誰って聞いても教えてくれないんですよね。」
「そうそう、2ショットは奥さんじゃないみたい。」
「つっこんでもね、『あれは、あっしの青春なんですよ。』だってさー。」

ああ。よかった。ほんとうにそう思った。

私と彼女の2ショットの写真は、もちろんない。

2011年12月 4日

いつも診療の話ばかりなので、ちょっとコーヒーブレイクの話をしましょう。

――2人だけの初めてのクリスマス・イヴ――のハズだった。
けれどもタレントのYチャンは待ちぼうけ。
次の日も、その次の日も。そして、とうとう大みそか。

Y「もう、絶対許してあげないから!!」
夜の10時、11時・・・。
誰かが彼女の部屋の扉を激しくノックした。疲れてテーブルに伏していた彼女。
Y「誰だろう、今ごろ?」
扉を開けるとそこには肩で息をしている彼が立っていた。
G「これ・・・。クリスマス・プレゼント・・・
花屋がどこも閉まっててさ。何軒も何軒もまわったんだ・・・」
Y「クリスマスだったら、バラとか、ランとか・・
せめてあの赤いヤツ(ポインセチアのこと)とかさぁ・・・」
G「閉まっている花屋をなんとかたたき起こしてさ、これしかなかったんだよ。だから、ハイ!どうしてもYに花を買いたかったんだ。」
Y「これ・・・。シクラメンじゃない?!
こんなのじゃ・・・・・・。うれしい!」


Y「ね?先生。Gっていい奴でしょ!今までで1番泣けたプレゼントだったかな。」
うれしそうな彼女を前にして、私はシクラメンの別名(ブタのまんじゅう)をそっと胸にしまった。

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さとう歯科医院 院長 佐藤達也

さとう歯科医院
http://www.satou-client.jp/
院長 佐藤達也

【ブログの主旨】

「診療雑感」は、私が過去にどのようなことを感じ、どんな診療を行っていたかをまとめたものです。症例写真だけでは技術をお見せすることはできませんが、文章なら私の人間性を語ることができます。 なじみの患者さんが言っていた、「何かあったら、(佐藤)院長が出てきてくれるんだから、俺は今の先生を信頼してお任せしていますよ。」とは、ありがたいひと言である。


【経歴】

1988年 東京医科歯科大学卒業

1988年~1990年 東京医科歯科大学研修医修了(2期生)

1990年~1998年頃 東京医科歯科大学・障害者歯科学講座・顎口腔機能治療部において、大山喬史教授(当時の病院長、現在学長)の指導のもと、教授診療助手のチームリーダーとして、難易度の高い義歯や著名人・芸能人の審美歯科治療を担当。

1991年~1998年頃 障害者歯科学講座・障害者歯科治療部において、有病者の歯科治療。

1992年6月 大田区東雪谷にて開業。

2004年9月 現在住所(隣)に移転。