2011年12月 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31

« 【大学病院】サプライズ (1) ~コーヒープレイク~ | メイン | 【大学病院】初めてのコーヌス・クローネ »

2011年12月 5日

大学病院時代、すべての歯をメタルボンド冠(白いセラミック歯)に変えたいというモデルさんがいた。彼女は、いわゆる着色歯で、すべての歯が灰褐色に変色していた。なんとか役に立ちたいと思い、いろいろ手をつくしたが、なかなか先に進まない。何かがあると来院しなくなるのだった。

彼女の自宅電話、ポケベル(なんと当時は携帯電話がなかった!)彼女のママ、彼氏、・・・と次々に押さえていったが、それでもつかまらないこともある。

前処置が終わり、いよいよ大規模に削って仮歯に変えようという段になった。ここからは1回あたりのチェアータイム(治療時間)が大幅に長くなる。
仕事やオーディションの関係で3本ずつ仮歯というわけにはいかない。事務所には、歯の治療はしていないということになっているからだ。

教授の指示でまずは1回に上前方10本、次に下前方10本を削って仮歯にするということになった。
治療時間は1回当たり5時間といったところだろう。ここまで口腔内すべてにかかわってきた以上、何とか無事に仕上げたい。だが、彼女の精神力が持続するだろうか?私の大学での残り時間も1年を切っていた。教授は「口元の美」という講義のために審美治療の症例数をできるだけ集めたい。彼女は、歯さえきれいになれば笑った写真がとれて自分は売れると信じている。

実際、南野陽子、観月ありさの間に「富士フィルム」のコマーシャルに入れるかというところまできていた。
彼女の母親(銀座か赤坂のママだったと聞いている)は私のことを買ってくれている(?)

全員の望みをかなえるため、何がベストだろうか?
私が彼女を「愛してしまった」というストーリーが1番被害が少ないのではないだろうか?
これ以上無理を通すとまわりに多大な迷惑がかかる。
当時の私はそれぐらいしか思いつかなかった。

実際数年にわたり治療を続けていると胸中かなり複雑である。50cm以内の距離に毎週のように入っている。私はそのストーリーで行くことに決めた。教授診療の名の元に夜間診療をするのも、誰のせいでもなく、私が彼女にホレてしまったため。一度などは夜11時頃になり、手伝ってもらっていた研修医の女性の所属先から抗議を受けた。
相手は今では有名人の澤田則宏先生(私の同級生)で
「タツヤ!ウチの女の子に何をした!」
と言われてしまった。

また、彼女に相談事があると夜の街に連れ出したのも彼女が好きだから。彼女がヘルニアで入院すると見舞いに病院へ行ってなぐさめた。

そうすることによって、まわりがそういう目で見てくれるようになり、何とか大問題にならずに治療をしていたが、何度目かの音信不通が起こった年末のことだった。担当技工士のOさん(教授の患者さんの担当は、すべて技工士学校の教官で、本来私などが口を聞けるレベルではない)があいさつに来られた。

「先生、私事で恐縮ですが、来年3月を持って退官することになりました。長い間大変お世話になりました。・・・ただ、唯一の心残りはあの・・・」
グッときて熱くなった。なんとしても彼女を連れ戻して3月までに作り上げねばならない。
昔風に言えば、「わが命に変えても」、の心境であった。

年明けの外来に彼女と母親の姿があった。その日はいつもより混雑しており、事務局のスタッフが数名いたことから、政府高官も来院することがうかがわれた。(タイミングが悪いな。)

順番になり彼女の元に向かった。
まず、母親が立ち上がり
「先生、大変申し訳ありません。Sチャン・・・」
と彼女をうながしながらお菓子を差し出した。
彼女は深くかぶった野球帽ごしにこちらを見た。
その眼は(どうせまたお説教でしょ。早くすませてよ。)と言っていた。
ゆっくりと立ち上がった彼女の頬に私の右手が向かった。左頬に1回、返す手で右の頬に。
瞳の水道管が破裂して、彼女は待合室を飛び出した。

「Sチャン!先生申し訳ありません。」
母親が彼女を追った。最悪の数分間、私は立ちつくしていた。10才年下の女の子に私は全くかなわなかった。

それでも私には仕上げる責任があった。
母親が連れ戻した彼女はまだ大雨が降っていた。もしここで母親に暴力歯医者と呼ばれたら荷物をまとめて出る覚悟の上であったが、母親はすべてを理解してくれていた。
「Sチャン、泣いたままでいいから、スケジュールを持ってついて来て。」
1Fの外来から3Fの技工部まで私は彼女の手をとって進んだ。
人ごみがよけて道ができていった。

「Oさんいらっしゃいますか?」
驚くOさんに
「どういう工程表なら間に合いますか?」
「Sチャン、はっきり答えて。」
「うん、うん、・・・」
「はい、大丈夫です。仕事はキャンセルします・・・」

その後、かつてない程のペースで治療は進んだ。アシストしてくれる若手のドクター、衛生士、そしてOさんの協力の元に。
「Oさん、印象出ました。」
「すぐに取りにうかがいます。」
Oさんが石こう模型を起こし、すぐにやって来る。
「先生。8歯はいいのですが、2歯は少し甘いようなので、副歯型印象をお願いします。それと、大変申し訳ないのですが、全顎でもう1組個歯トレーを作ってきました。」
「Oさん、まだ3時間はかかると思うけど、大丈夫ですか?」
「何時まででもお待ち申し上げております!」

3月中旬、最後のセラミッククラウンを口腔内に装着し、医局資料としての口腔内外の写真撮影を終了した。
当然のようにOさんも立ち会っている。私は最後の仕事に気がついた。

ごきげんのSちゃんに
「Sちゃん、教授室の前で記念撮影しない?」
教授室のプレートをいれ、Sちゃんと遠慮するOさんの2ショットの写真を何枚かフィルムにおさめた。

当時まだ珍しい全顎治療の彼女のスライドも加わった、教授の「口元の美」の講演は好評で、続編も作られる程だった。

時は流れ、数年後の合コンでのことだった。相手は衛生士さんのグループで、ふとしたことから懐かしいOさんの名前が出た。
「Oさん、うちの医療法人で技工やってますよ。」
「いつもきれいにして帰る技工机に1枚の写真が飾ってあるんです。誰って聞いても教えてくれないんですよね。」
「そうそう、2ショットは奥さんじゃないみたい。」
「つっこんでもね、『あれは、あっしの青春なんですよ。』だってさー。」

ああ。よかった。ほんとうにそう思った。

私と彼女の2ショットの写真は、もちろんない。

Powered by
本サイトにて表現されるものすべての著作権は、当クリニックが保有もしくは管理しております。本サイトに接続した方は、著作権法で定める非営利目的で使用する場合に限り、当クリニックの著作権表示を付すことを条件に、これを複製することができます。
さとう歯科医院 院長 佐藤達也

さとう歯科医院
http://www.satou-client.jp/
院長 佐藤達也

【ブログの主旨】

「診療雑感」は、私が過去にどのようなことを感じ、どんな診療を行っていたかをまとめたものです。症例写真だけでは技術をお見せすることはできませんが、文章なら私の人間性を語ることができます。 なじみの患者さんが言っていた、「何かあったら、(佐藤)院長が出てきてくれるんだから、俺は今の先生を信頼してお任せしていますよ。」とは、ありがたいひと言である。


【経歴】

1988年 東京医科歯科大学卒業

1988年~1990年 東京医科歯科大学研修医修了(2期生)

1990年~1998年頃 東京医科歯科大学・障害者歯科学講座・顎口腔機能治療部において、大山喬史教授(当時の病院長、現在学長)の指導のもと、教授診療助手のチームリーダーとして、難易度の高い義歯や著名人・芸能人の審美歯科治療を担当。

1991年~1998年頃 障害者歯科学講座・障害者歯科治療部において、有病者の歯科治療。

1992年6月 大田区東雪谷にて開業。

2004年9月 現在住所(隣)に移転。